舞鶴市に残る歴史的名所と医療センターの役割

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舞鶴市に残る歴史的名所と医療センターの役割

舞鶴市には、歴史ある舞鶴医療センターがあります

ここは、終戦の年まで「舞鶴鎮守府海軍病院」として、傷病兵士の治療に特化した病院でした

当時は周辺に海軍の住宅地も広がっており、今ではその名残を感じることができます

舞鶴市の行永に位置するこの病院は、戦後、海軍の解体により国立舞鶴病院となりました

舞鶴市史によれば、1946年から58年11月までは、ソ連に抑留された軍人たちの引き揚げに伴い、舞鶴に到着したばかりの人々の診療を手掛けていたそうです

この医療センターの近くには、防空壕の跡と考えられる遺構が残っています

70代の元小学校教員名取哲夫さんと一緒に訪ねてみました

正門から外周を歩き、東の山裾にたどり着くと、縦横2.5メートルほどの古いトンネルの入り口のような遺構がありました

しかし、中には入れないようコンクリートで閉じられています

周囲には草木が生い茂っており、知らなければ見落としてしまう場所です

名取さんはこの場所について「ここは当時、海軍病院の敷地で、患者や医療関係者のために造られたのではないか」と話します

彼の思い出には、小学生のころに友達と探検ごっこをしたという懐かしい記憶が語られています

また、医療センターの敷地内には、もう一つの不思議な構造物があります

直径3メートル、奥行き5メートルの大きな筒状のもので、少し地面に埋まっているようです

郷土史家によると、これは一時的な避難に使われた掩体壕だと考えられています

舞鶴市には、海軍病院や関連する遺構がまだ知られていないものも多くあり、地域の歴史を伝えるために、市郷土資料館の小室智子学芸員は「防空壕の掘られた時期や関連する資料について、情報提供を呼びかけています」と話していました

舞鶴市は、終戦直前の1945年7月に激しい空襲を受けた歴史があります

その時、これらの防空壕はどのように使われたのでしょうか

戦争の記憶が薄れつつある今、舞鶴市ではこの地での戦争の歴史を語り継ぐ努力が必要だと思います

舞鶴の海軍関連病院の歴史

病院名設立年現在の名称
舞鶴鎮守府海軍病院1884年舞鶴医療センター
舞鶴海軍工廠職工共済会病院未確定舞鶴共済病院
財団法人海仁会病院未確定市立舞鶴市民病院

舞鶴にはこの他にも公的な病院があり、地域医療を支えています

私たちも舞鶴の歴史を振り返り、地域を盛り上げる一助となりたいですね

ピックアップ解説

舞鶴市の防空壕は、戦時中に空襲から身を守るために掘られた場所です。防空壕は「防空」とは、敵からの攻撃から身を守ることを意味します。当時の人々は、空襲警報が鳴ると防空壕に避難し、安全を確保しました。防空壕はアルミ缶や瓶が転がっていたと名取さんが話すように、当時の人々の日常の一部でもありました。今はその記憶が薄れていますが、舞鶴市ではその歴史を後世に伝えていく重要性が増しています。

キーワード解説

  • 舞鶴鎮守府海軍病院は、舞鶴市にあった海軍病院で、主に傷病兵士を治療していました。終戦後は国立舞鶴病院となりました。
  • 海軍工廠は軍艦や武器を製造する工場のことを指し、舞鶴市には重要な海軍工場が存在しました。戦時中、ここで多くの産業が支えられていました。
  • 掩体壕とは、空襲や攻撃から飛行機を守るために掘られた壕のことです。戦時中、軍用機の保護に重要な役割を果たしました。

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