
1945年6月26日の朝、京都市上京区で起こった空襲は「西陣空襲」として知られています
この空襲では40人を超える市民が命を落としましたが、戦時下の情報統制により、その被害の実態を知る人は少なく、私たちの記憶からは薄れていってしまいました
そこで、私たちは「知られざる空襲被害」を語る人々を尋ねました
60年以上前、京都新聞に掲載された記事には、生後51日の赤ちゃんの救出劇が記されています
貞子ちゃんと名付けられたその赤ちゃんは、2025年に80歳を迎え、今でも京都市内で元気に暮らしています
実は、彼女も当時のことはあまり知らず、歴史を振り返ることで新しい事実を知って驚きを隠せなかったのです
西陣空襲の記憶とその影響
6月27日、京都新聞は「三度(みた)び京都盲爆」と題し、前日の空襲を報道しました
取材に行った記者は、現場で助け合う人々の姿を目の当たりにし、その中に赤ちゃんがいることに気づきました
「人々の精魂込めた力」と形容されたその情景
新聞には、救出された赤ちゃんの貞子ちゃんの姿を描いた記事が掲載されました
80年経過して新たに知ること
80年が経った今、貞子さんに当時の京都新聞の記事を見てもらいました
彼女は一文字ずつ指でなぞりながら、「家の下から叫び声」と書かれているのを見て、記憶が蘇ることに驚きました
「そういえば母が最初に助けてもらったって言ってました」と語ります
記事には、救出された兄も関わっていたとの記載があり、そのことを初めて知ることができました
感謝と穏やかな思い
貞子さんは、95行の記事をじっくり読み進め、感謝の言葉を口にします
「本当ならこの世にいなくなっていた命です
助けてくれた皆さんには心から感謝します」と目を潤ませながら語りました
また、母の姿を想い、「苦しい思いをさせたのは母だったので、母がそのことを話せなかったのも分かります
80年たってやっと気持ちが整理できました」と感慨深げに振り返りました
私たちが歴史を学ぶことは、こうした感謝の気持ちを育むことにもつながるのです
貞子ちゃんが生まれた1945年は、第二次世界大戦の真っ只中でした。この時代の空襲は、都市部を中心に多数の犠牲者を出しました。京都もその例外ではなく、歴史的に見ても、多くの人が日常を奪われる悲惨な経験をしました。しかし、そんな中でも人々の助け合う姿勢や、共に乗り越えていく力は、今でも私たちに大切な教訓を残しています。京都が今でも美しいのは、こうした歴史の中で育まれた人々の絆があるからこそだと思います。
- 空襲とは、戦争中に敵国の都市や軍事施設を航空機から攻撃することです。京都はその被害を多く受けました。
- 消防団とは、地域の防火活動や災害時の救助を行う民間の団体です。空襲時には住民を守る役割を果たしました。
- 報道管制とは、戦時中に政府がメディアの報道を制限することです。真実を知らせないことで、市民の不安を抑えようとしました。
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