
京都市南区に住む95歳の尾谷善太郎さんが、風船爆弾を製造していた当時の思い出を語りました
彼の経験は、戦争の影響を受けた京都の人々の生活を鮮明に浮かび上がらせています
子どもが見た戦争の現実
尾谷さんは京都市中京区で生まれ、尋常小学校5年生の時に太平洋戦争が始まりました
戦争が続く中、食べ物が不足し、家族は二条城周辺のヨモギや外堀にいるフナやコイを捕まえて食べていました
食料難と食事の工夫
「食べ物がないというのは本当につらかった」と尾谷さんが語るように、配給制度が厳しく、日々の食事が大変でした
京都の人々は、工夫を凝らして食事をつないでいました
強制立ち退きと家屋の供出
戦時中、御池通りでは強制立ち退きが行われました
金属を供出するために、壊れた家屋からくぎを集めることが学生たちの役割でした
そのくぎを府庁に届けると、雑炊の引換券をもらえました
年 | 出来事 |
---|---|
1945年 | 馬町空襲 |
1945年6月 | 西陣空襲 |
工場での作業
さらに、尾谷さんは学徒動員で西大路七条の工場に通うことになり、そこで震災に耐えるための「仙花紙」と呼ばれる和紙を用いて風船爆弾の製造作業に関わりました
こんにゃくのりを使った加工を手伝う一方、製造場所について知らされていなかったことにも驚きを感じています
戦後の深化した生活
戦後、尾谷さんは米軍施設に勤め、重機の部品調達に従事しました
戦争を経て、敵側の人々と働くという複雑な心情を抱えながらも、新しい時代を迎えました
尾谷さんの話は、過去に思いをはせ、戦争の影響を受けた京都の歴史と人々の生き様を知るための貴重な体験として、多くの人々に伝えられるべきです
風船爆弾とは、第二次世界大戦中に日本が使用した特殊な爆弾です。気球のように空に浮かぶことで、アメリカ本土を狙い攻撃することを目的としました。風船は高山の風に乗って長距離を飛び、爆弾を見えにくくする意図がありました。実際に使用された数は限られているものの、その製造には多くの人々が関わりました。尾谷さんのような京都の人々も、当時の厳しい状況の中で重要な役割を果たしていたのです。これが戦争の一部であることを思うと、その背景には多くの人の苦労があったことがわかります。
- 風船爆弾とは、第二次世界大戦中に日本がアメリカに攻撃を仕掛けるために作った特殊な爆弾です。気球に爆弾を取り付けて飛ばすもので、風を利用して長距離飛行が可能でした。
- 京都の食糧難とは、戦争中に物資が不足し、食料が配給制で厳しく制限される状況のことです。多くの人々が工夫して食事をつなぎました。
- 学徒動員とは、戦争のために学生を工場や軍事施設に働かせる政策です。多くの学校の生徒がこの制度に従事し、戦争を支える一助となりました。
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