下京区に残る戦争の記憶 大丸京都店の歴史

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下京区に残る戦争の記憶 大丸京都店の歴史

大丸京都店(京都市下京区)は、私たちが普段利用するショッピングスポットですが、実は戦時中は軍需工場として使われていました

この歴史を知っている人は少ないかもしれません

今回は、94歳の和田照子さんの証言を通して、その当時の様子を振り返ります

和田さんは、1945年4月、府立第二高等女学校の生徒でした

当時、彼女たちは動員されて大丸の上階で木工廠(もっこうしょう)で働かされていました

売り場の商品が減っていたころ、彼女たちは鉄片を磨く作業を行ったそうですが、その内容は飛行機の部品などに使われるものであること以外は知らされていなかったそうです

「必勝」と書かれたはちまきを締めて、和田さんも毎日一生懸命に働きました

その頃、食べ物が不足しており、彼女は栄養失調で痩せこけていました

友人の中には工場に来なくなり、後で亡くなったと聞くこともあったそうです

クラスには40人ほどの生徒がいましたが、そのうちの10人近くが結核などで亡くなったのです

また、四条通では、むしろから紫色の足が出た遺体が見えたこともあったと言います

誰も気にかけずに通り過ぎていく中で、死が当たり前のことであるかのように、悲しみや恐怖を感じることもなくなっていたそうです

1945年8月15日、工場内で流れた玉音放送で敗戦を知ったとき、和田さんは動員されていたクラスメートと肩を抱き合って泣いたそうです

「どうしてこんなことになってしまったのか」という無念の思いがそこにあり、これから先の生活への不安もありました

友達と二度と会えないかもしれないと思い、柱にそれぞれの名前を彫って「さようなら」と書き添えたのです

その後、四条通から烏丸通を歩いて、上賀茂の自宅へ帰った和田さん

手には不要になった防空頭巾と非常袋を持ち、友達とは何も話さずに歩き続けました

その時、目の前の電車の線路がかげろうのように歪んで見えたことを今でも覚えているそうです

暑さや敗戦の虚しさ、栄養不足からのめまいも影響していたのだと思います

和田さんの夫は、戦争で亡くなった友人たちのことを思うと、常に自責の念を抱いていたそうです

生き残ったことがよかったのか、自らの命を失った仲間に対して申し訳ない気持ちがあったと

和田さんが今でも大丸に行くたびに、亡くなった友達の思い出がよみがえります

ピックアップ解説

「木工廠(もっこうしょう)」は、木材を加工する工場のことを指します。戦時中は飛行機や武器などに使われる木材を加工するため、多くの若者が動員されました。この名残は京都でも見られ、今では観光地としても知られています。木工廠での作業は大変厳しく、栄養不足による健康状態の悪化も報告されていました。戦後の復興に向けて、彼らの努力は大きな意味を持ったのです。

キーワード解説

  • 軍需工場とは、戦争に向けた兵器や弾薬、飛行機などを製造するための工場を指します。多くの国で戦争時には民間の工場も軍需工場として利用されました。
  • 栄養失調とは、必要な栄養を十分に摂取できないことによって起こる健康状態のことで、疲れや虚弱、成長遅延などが見られます。戦時中は食品が不足しやすく、多くの人々が栄養失調に苦しんでいました。
  • 玉音放送とは、1945年8月15日に日本の天皇が放送した、終戦の知らせを伝える重要なラジオメッセージです。この放送により、多くの日本人が戦争の終結を知り、涙を流しました。

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