
戦中・戦後の中国で「ひとりぼっち」で8年間を過ごした少女が、京都・舞鶴に引き揚げた時には唯一知っていた言葉が「おおいた」でした
このような驚くべき体験を持つのは、京都市下京区に住む86歳の塩月廣子さんです
塩月さんは戦争によって翻弄された自身の人生を、知人の協力を得て本にまとめました
今日は、彼女の壮絶な体験と、そこから得た思いについてお話しします
塩月廣子さんの物語
塩月さんは1939年に大分県で生まれ、すぐに結核のために母を亡くしました
父と再婚した義母のもとで台湾に移り、その後弟も生まれましたが、悲劇は続き、父が戦死してしまいます
6歳の時に義母と弟と別れ、中国の済南市に住む叔母のもとに預けられましたが、その後叔母も病気で亡くなり、塩月さんは「ひとりぼっち」になってしまいます
引き揚げの道のり
終戦を迎えた後、塩月さんは引き揚げを目指しました
彼女は近所の人たちとぎゅうぎゅう詰めの列車に乗り込み、敵の攻撃から身を守るために草むらに隠れながらの旅でした
収容所に着くもすぐには船に乗れず、倉庫のような場所で「今村先生」という人に世話を受けます
彼からは『日本語を話してはいけない』と教えられ、中国語を学ばざるを得なかったのです
おそろしい記憶
塩月さんの心に深く刻まれたのは、食べ物がなく、草をむしって食べていた時期のことです
そんな彼女を助けてくれた中国人もいたことが心の支えとなりました
14歳の時、ついに日本人として生きる希望を持ちつつ、一人で引き揚げます
舞鶴に到着した5月、彼女は記者に「出身はどこ?」と聞かれ、「おおいた」と答えると、その言葉が新聞に載りました
戦争からの教訓
戦後の塩月さんは、言葉がわからず中学校でいじめに遭い、辛い思いをしました
しかし、辛い経験をバネにして彼女は仕事をいくつも経験し、日本語を習得していきました
離婚などを経て、京都に移ります
京都ライトハウスで訓練を受け、多くの人と出会うその中で、彼女は穏やかな日々を築くことができました
最後に…
最近、自費出版された彼女の本には、帰国後の後半生についても触れられています
塩月さんは自身の人生の記録を通じて、他者に何かを伝えようとしています
「人間が何であるかを考えるきっかけになれば」と彼女は願っています
「今村先生」は塩月さんが中国にいたころ、彼女に中国語を教えました。本来の日本語を話すことが禁止され、中国語を学ぶことは、彼女にとって生き延びるための重要なサバイバル技能でした。この経験は、異文化交流の重要性や、言葉を基にしたコミュニケーションの大切さを教えています。言葉は人を繋ぐ大切なツールであり、それを理解することが彼女の心の支えとなりました。
- 京都ライトハウスとは、視覚障害者などの支援を行う機関で、様々な訓練やサービスを提供しています。
- 自費出版とは、著者が自身の費用で本を出版することを指し、一般的に出版社を通さずに行なわれます。
- 戦後復興とは、第二次世界大戦後に国や地域が経済や社会を再建するプロセスを意味します。
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