
1945年5月、森田道子さん(現在94歳)は、京都の太秦にあった被服工場に動員されて、左京区の自宅から通っていました
この時、森田さんは京都女子手芸学校(今の京都橘中・高)に通う中学3年生です
工場では軍服を作り、工員と学生が班を組んでノルマを競っていたそうです
班の名前には「カミカゼ」など特攻隊の通称が用いられていました
空襲警戒のサイレンが鳴ると、森田さんたちはミシンを止め、近くの蚕ノ社(木嶋神社)に避難しました
その後数時間してから、工場に戻るという毎日が続いていました
戦争が終わらないと信じていたものの、物資や食べ物が不足している状態で、不安な日々を送っていたとのことです
「ぜいたくは敵だ」と言われていた当時は、髪にパーマをかけた女の子を男の子がからかう様子がありました
森田さんは反発する気持ちもあったけれども、当時の社会では女性が意見を言うことは許されませんでした
終戦の日の光景
8月15日の早朝、裏庭で植木の手入れをしていた森田さんの父と話していると、B29爆撃機が一機だけ飛んできました
普段は編隊を組んで飛んでいくB29が、なぜ一機だけ低空で飛んでいたのでしょうか
操縦士の顔も見えるほどの低さだったそうです
B29からはたくさんのビラが降ってきました
そのビラには「日本はポツダム宣言を受諾した」と記されていましたが、その内容を理解することはできませんでした
敵兵のビラを持っていたら特高警察に捕まると思った彼女の父は、すぐにビラを隠しました
工場での放送
工場では「重大な放送があります」と言われ、作業員たちはラジオの前に集まりました
音声が不鮮明で内容ははっきりしなかったものの、ある工員が「戦争、負けたんやって」と教えてくれました
森田さんはその一言を聞いて力が抜けたそうです
「何のためにやってきたのだろう」という虚しさが心を覆いました
しかし、9月に学校が再開した時、クラスメートたちと喜び合った思い出が蘇ります
戦後の記憶を伝えること
今でも終戦の日の出来事は鮮明に覚えている森田さんですが、若い人たちに「今年は戦後80年です」と話しても、反応が薄いことに寂しさを感じています
それでも、少しでも関心を持ってもらえるよう、戦争の記憶を伝えていくことが長く生きた者の役目だと感じています
「特攻隊」とは、日本が第二次世界大戦中に用いた攻撃方法で、敵機に体当たりするなどの特別攻撃を指します。この特攻隊の名は、兵士の壮絶な覚悟と、戦争の悲惨さを象徴しています。特攻隊員たちは国のために命を捧げた一方で、その背景には多くの悲劇が存在していました。京都でも、このような歴史を知り、未来の世代に語り継ぐことが必要です。
- 「ぜいたくは敵」とは、戦時中の日本で物資が不足する中での心掛けを表す言葉で、余分なものを持つことを戒めたものです。戦争のために皆が一緒に耐え忍ぶ精神が込められています。
- ポツダム宣言とは、1945年7月26日に連合国が日本に対して出した降伏の要求を記した文書です。この内容を受け入れることで、日本は戦争を終結させることになりました。
- 特高警察とは、戦前の日本で政治的な反乱を取り締まるために設置された警察機関で、特に言論や思想を監視していました。厳しい弾圧があったため、市民は自由に表現することができませんでした。
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